August 20, 2004

着装文化通信09 オーバーニーソックス

 本誌2004年3月号の「Vol.3/着衣様式の嗜好について」で私なりのナイロンに関しての嗜好と分類を挙げました。
 おさらいしますと、1.ストッキング類。2.パンティストッキング類。3.タイツ。4.ソックス類。となります。
 今回は、この応用編として、オーバーニーソックス着用に観る、ナイロン重ね履きの妙について考えてみましょう。
 海外のボンデージシーンにおいて、オーバーニーソックスは、チアリーダーや女子学生のコスチュームで多々使用されます。それは弾けるような若さの象徴として捉えることもできましょう。膝上、いや、もうガーターストッキングと見まごうばかりの長さにまで上に伸ばしたソックスはその上部に若い太股の皮膚を露出するための開放的な演出といえないでしょうか?
 翻って私のオーバーニーソックス着用へのこだわりというのは、ある種日本的といいますか、またはボンデージ的くどさといいますか、そういうフェチ心の錯綜したところにあります。
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 それは、海外の開放感に比すと、幾重にも包む、覆うという奥ゆかしさに通じる感覚であり、猿轡やロープと同様、やるからにはとことん、使う、巻きつけるという縄師的発送であります。
 私の中では、上記ナイロン分類1・2と、3の一部(網タイツ)や4は、根本的に扱いが異なっています。1→2→3→4の順に、ナイロンとしてのエッセンシャリズムが薄らいでいくような感覚とでもいえましょうか。ガーターストッキングやパンティストッキングなどはそれそのものとしての着用で充分撮影に耐えうるものとして扱うのに対し、網タイツやソックス類は、他ナイロン、即ちストッキングやパンストとの重ね穿き、という手法でのみ用いることになります。
 殊にパンストとオーバーニーソックスなど、ソックス類の取り合わせには2つの方向の妙が伺えます。一つは、内から外へ外へと向かう重なりであります。画像でもおわかりのとおり、モデルさんの脚の皮膚を、パンストとソックスで一枚一枚神秘のヴェールで包み込み、妖しい曲線で縁取るその妙です。他方は、重ねた履物の端の上下差が見せる素材のヴァラエディとある種のくどさがもたらす妙であります。この画像についていえばパンストにはさらに、パンティ部分ストッキング部分との布地の境目があることが重要なポイントです。言うまでもないことですが、内外、上下のいずれの妙においても、最後の仕上げは必ずロープが締めくくるわけです。脚に巻きつけたロープをこれらの布地たちが絡み合って見せる脚の肉感や、関節によった布地のシワに幾多の妄想を描いてみることが可能になります。
 上記オーバーニーソックス着用の画像をご覧になれば、それは一目瞭然です。すなわち、パンティストッキングを履いた、さらにその上から、オーバーニーソックスを重ねて履く、ということでこのアイテムの存在感が一層際立つように思うのです。
 このような着用方法は、現在では、全く日常のものではありません。ネイキッドフット即ち生脚が、こと足元のファッションの主流を占めている感がある昨今は、なおさらのことでしょう。
 私は、この若く溌剌とし、前途満ち溢れたモデルさんを目の前にして何故か、このような、言ってみれば時代錯誤な着用方法を試さずにはいられなくなっていたのでした。
 余談になりますが、私の学生時代には、学級の女子のブルマ姿は、パンスト着用が常であり、ブルマ+パンストという重ね履きに、若き日の初々しい胸の鼓動を、思い起こす紳士も決して少なくはないと思うわけです。
 ナイロン+αの重なり、という観点でいえば、今回のパンストとソックス類の重ね履きや、ストッキングの二重履きという手法には脚を脚そのものよりさらに淫靡に見せるという点において、相通じるものがあるようにも思われます。

S&Mスナイパー2004年10月号掲載



reijoh_shashinkan at 23:29|PermalinkComments(0) Share on Tumblr ストッキング類 

June 20, 2004

着装文化通信08 妄想

 今回から紙面のレイアウトも刷新されましたので、これまでと多少おもむきをかえて、様々なボンデージ・シーンごとに湧き上がる筆者の妄想を中心に記していきたいと考えています。加えて、制作にあたっての思い入れやら想い出やらについても記していけたらと思います。
 まずは、緊縛された身体をくの字型に身体を折り曲げてベッドに横たわるポーズについて考えてみてください。なんともいえない艶かしさを感ぜずにはいられませんよね。真直ぐに伸ばした脚の背面がすっきりと見えていて、バックシーム・フェチの嗜好も充分に満たすことが可能です。女性の目は瞑っているか、半開き程度のほうが妄想をかきたててくれるでしょう。勿論、両手首両足首にはロープが幾重にも巻かれ、両肘両膝もロープでしっかり括られている厳重さであります。猿轡も忘れてはなりませんね。膝のロープは、両膝を括るのみでも構いませんし、場合によっては余ったロープを首のところから背後に伸ばして縄止めしても可。後者の場合、彼女の身体は前屈した状態で固定され、とても苦しそうな表情を見ることができるでしょう。
 さて、これまで散々にもがきまわったせいでしょうか、今や彼女は総ての体力を使いきり、ぐったり横たわってまさに無防備そのものです。もう、どうにでもしてくださいという無意識のあらわれでもあるのでしょうか。そっと彼女に接近し、すらっと伸びた美しい脚の背面を、ストッキング越しに人差し指ですすっと撫でてみたくなります。そうした直後の彼女の反応を想像するのは実に楽しいものであります。彼女自身の理性とはうらはらに、猿轡の中から秘悦の歓喜を漏らしてしまうのか、はたまた、理性が打ち勝って、再び激しいもがきとうめきの抵抗が始まるのか、まさに手に汗握る妄想です。
 そっと近づいて、すすっと指を這わせるところから妄想してみましょう。指は彼女の膝の内側あたりから、すすっと太腿の方に向かって走ります。彼女の身体にぴくんと衝撃が走り、瞑っていた目がパッチリと開きます。ぐったりしていた頭を起こし、筆者を睨みながら、身体を激しく揺り動かして、伸ばした脚を折り曲げようとします。
 そうはさせじと筆者は片手で彼女の足首をおさえつけます。彼女の意外と力のこもった抵抗にこちらもついつい力が入ります。彼女は、脚が駄目なら、胴体のほうを伸ばして、無防備なくの字型からの脱却をはかるでしょう。筆者は先程おさえこんだ足首を捻るようにして少し持ち上げます。これによって仰向けになるように力が作用して、彼女の身体は今のポーズのまま固定されることになるのです。思うように動けない状況にあることを彼女は瞬時に悟り、怒りの声をあげるでしょう。
 「うむむむむむ!」
 全てはこの声を聞きたいがための準備行為に過ぎません。くぐもったうめき声は耳から直接脳髄を刺激し、加虐の炎を煽り立てます。脚フェチの気もある筆者は、そのままストッキングに包まれた脚を鷲掴みにします。痛さ、くすぐったさ、恥ずかしさ、悔しさ、それらが交錯する中で、模糊朦朧として薄れ行く意識とともに、彼女の理性は完全に無力化していきます。
 まさに極楽といったところでしょうか。実際の撮影中におきましても、このような妄想が自然発生し、そのまま脳髄から離れていってくれないことがしばしばです。かといって、作業の妨げになるからこのような縛り方やポーズは忌避するといった無粋なことはいたしません。撮影は筆者の密かな悦びをうちに秘めて粛々と進行してまいります。モデルさんもそれを知ってか知らずてか、筆者の密かな妄想を見て見ぬふりを、というよりむしろ、妄想に拍車をかけるような大胆な媚態を、時としてサービスしていただくことも少なくはありません。やっぱり、撮影は楽しくやれなくちゃいけませんよね。楽しく妄想に浸ることが出来るよう、今日も縛りに気合が入ります。

S&Mスナイパー2004年8月号掲載



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May 20, 2004

着装文化通信07 ポーズ

 前回フォトに関するお話をさせていただいた勢いで、今回は筆者がこだわるフォトのポーズについてお話をさせていただきたいと思います。
 学生時代、やっとの思いで手に入れたSM雑誌(名称は失念しました)の中に、読者の投稿写真のコーナーがあり、そこでは、送られてきたそれぞれの写真に対して、縄師の美濃村晃氏がひとつひとつ寸評を加えておりました。その中で、胸部を雁字搦めに緊縛した写真がありました。これに対する寸評が、概ね次のようなものでありました。
 「胸がしっかり縛ってあっても手や腕に一本も縄がないのでは、被写体の女性が本当に緊縛されているのかどうかはっきり伝わってこない、残念。」
 すなわち、手首や腕に縄が巻きつけているのが見えてないと、緊縛写真としての価値が減ずることになるという、ひとつの基準を示されたわけです。若かりし頃の筆者は、この基準を、素直に受け止めました。もっとも、この基準は、縛り方に対しての基準だったのでありましょうが、評価の対象が写真作品であった以上は、写真作品そのものの基準でもある筈なのです。少なくとも、筆者はそう考えました。ここから筆者の求める写真作品のポーズの原則の第一が導き出されてまいります。
 【原則一】「手または腕に巻きついたロープが見えるポーズでなければならない。」
 一方、ナイロン・フェチを自負する筆者としましては、そのベースとなる脚線を強調しないわけにはまいりません。
 その脚をいかに長く見せようか。しかも、ぎりぎりまで見せて、際どい位置で辛うじて見せなくするにはどのような姿勢が望ましいか。筆者は様々な脚フェチ文献やウェブサイトを渉猟し、そのための手法について検討を重ねてまいりました。
 自由に動作できる脚には、無限のポーズが考えられましょう。しかしながら、緊縛された脚という条件下におきましては、ポーズの種類にも制限が出てまいります。
 そこで、各種の縛り方に応じたポーズというものが求められてまいります。それらの詳細は紙面の関係で割愛させていただきますけれども、これらの最大公約数が筆者のポーズの原則の第二に他なりません。
 【原則二】「脚線美が強調されるポーズでなければならない。」
 昨今はボンデージも市民権を得て、様々な場所でその関係の写真作品を目にするようになりました。奇抜な構図や斬新な姿勢に思わず見とれてしまうものも少なくありません。それらは積極的に作風に取り入れていくつもりでありまして、新しいポーズを開発する努力は惜しみません。しかしながらも、上記の二大原則に関してだけは、どうしても無視することの出来ない大切なものとして、今後も堅持していくつもりでおる次第です。

S&Mスナイパー2004年7月号掲載

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reijoh_shashinkan at 23:31|PermalinkComments(0) Share on Tumblr ポーズやアングル等 

April 20, 2004

着装文化通信06 フォトストーリー

 ストーリーについて語ったついでに、フォトストーリーについての思いについてお話させていただきます。フォトストーリーは、一連の組写真でもって、ひとつの物語を構成するものであります。
 筆者が中学生だった頃であります。まったくの偶然でありましたが、筆者は初めてSM誌というものを書店の店頭で手にとってしまい、見入ってしまったのです。そこには、裸体やら下着姿やらの女性が、これまで見たこともないような縛り方でもって様々なポーズで緊縛された写真が満載されておりました。そのSM誌は、思春期の青少年の羞恥心のゆえ、その場で購入することは出来ませんでした。(数年後古書店で入手しましたが)
 しかしながら、その暫く後で、別のSM誌を購入する機会にめぐまれました。そこに相当多くの紙面を割いて掲載されていたのが、海外のボンデージ写真だったのです。ボールギャグやホグタイで拘束された異国の美女達の姿にすっかり魅せられてしまった筆者は、何度も何度もそのコーナーを鑑賞し続けました。そしてあることを発見したのです。
 頁内に無造作に配置されている複数の写真は、いくつかのグループに分類することが出来るらしいのです。つまり、そのコーナーは、複数の連続写真作品を適当にバラして構成されていたのでした。それを理解した筆者は、今度はその組写真の原型の復元に取りかかります。どれとどれが同一作品であるか、その順番はどうなっているのか、本来あったものが削除されてはいないか、そんなことを考えながら、複数頁に渡るそのコーナーに目を行き来させました。そしてそれらの組写真にはなんらかのストーリーがあるということも確信しました。「その原典を見たい。」それが思春期における筆者の密かなる願望となりました。
 それがかなうのは、比較的早い時期に訪れました。ハーモニー社の『Bondage Life』創刊号との出会いがそれであります。そこにおいては、すべてがストーリーでありました。満載された魅力的な写真群。簡単な英文による展開の記述。まさに、夢のようなボンデージ・ストーリーでありました。筆者が辞書を片手にすべての英文を翻訳したのは言うまでもありません。
 そしてその時、自らもこのような作品を撮りたいという欲望に駆られました。実際、緊縛写真を撮り始めたのもこの頃でありました。以前よりポートレイト撮影を地道に勉強してきておりましたが、その経験も加味されたかたちで、筆者の写真の作風はこの時点で決定づけられたと申しても過言ではありません。
 元来、隷嬢寫眞館は、その名のとおり、写真作品を中心としたものでありました。昨今では、ビデオやDVDが主流となってきておりますが、若かりし頃の写真への思いも大切にして、フォト作品もふやしていきたいと思う次第です。

S&Mスナイパー2004年6月号掲載

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March 20, 2004

着装文化通信05 ストーリー

 シチュエーションをベースとして作品全体に深みを持たせるようにしたものをストーリーと称します。静的な概念であるシチュエーションに対して、ストーリーとは時間の流れに則った内容の変化を持たせるという動的なものであります。起承転結という伝統的な言葉で表現してもよいでしょう。
 その具体的な表現方法は、明示的なものから暗示的なものまで様々です。詳細な台本のもと重厚な演技でもって作品を構成するものは前者でありましょうし、タイトルのみを示して、あとは視聴者の想像にお任せというのは後者に当たるでしょう。
 要するに、限られた時間と空間の中でストーリーを表現するためには、多様な手法があるということなのです。衣装や部屋の調度がシチュエーションを表現するものであるならば、台詞、演技、テロップ、タイトル、等は、ストーリーを表現するための手法と考えてよいでしょう。これらを自由奔放に駆使することによって作品を組み立てていくことは、制作者としての楽しみのひとつとも言えましょう。
 但し、いくら自由とはいっても、シチュエーションから極端に逸脱したストーリーは考えものです。和室の中で和装のモデルを撮っておきながら、タイトルが例えばボードレールから借用して『パリの憂鬱』と題し、他は一切の説明もないのであれば、無理な解釈の余地は残されるとしても、大多数の視聴者はきっと混乱するでありましょう。当たり前のようなことですが、シチュエーションとストーリーとは、分かりやすく同期をとったものでないといけません。
また、余りに凝り過ぎて、肝心のボンデージ・シーンが殆んどないというストーリーもよろしくないと思います。視聴者の真の目的はボンデージ・シーンを鑑賞することでありまして、高尚な作品を味わいたいわけではないからです。したがいまして、ここで言うストーリーは、ボンデージ・シーンが大半を占めるものでなくてはなりません。
 極端な例でありますが、ストーリーの必然から、起承転結のうち、転のみにしかボンデージ・シーンが登場しないような場合、起・承と結の部分は文章説明を数秒で流し、転部分のボンデージ・シーンをたっぷりと表現するやり方も、筆者は有りと考えます。
 そのような立場から、筆者が作るストーリーは、荒唐無稽なものが自然と多くなってまいります。少なからず強引にボンデージ・シーンを導くことが容易であるためです。起承転結全ての場面においてボンデージ・シーンが登場するストーリーを作っていくことが、筆者のささやかな願いなのであります。

S&Mスナイパー2004年5月号掲載

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reijoh_shashinkan at 23:34|PermalinkComments(0) Share on Tumblr 設定等 
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